My Story




前書き
My Storyへようこそ。
ここでは私に起こったいろんな出来事を振り返りながら、 いろんな想いを綴っていこうと思っている。
今の私
今の私。
住まいは福岡県北九州市。といっても外れの方の長閑なところで、でもちょっと便利はいいところ。
車さえあれば・・・なんだけど。
車はホワイトで4WDの1600cc。ちょっとした段差は平気なのがうれしい。

ずっと好きだった「歌」を仕事にしている。いわゆる「シンガー」だ。「歌手」とも言うし「ヴォーカリスト」とも言う。
でも、それまではしっかりOLもやってきた。かなりマジメに。
「歌」を仕事にするなんて、テレビで歌っているような有名芸能人にならないといけないと思っていた。
だから、私には無理だと思った。なぜなら、中学生くらいからオーディションなんかには応募していたが、おいしい結果にありつくことはなかったからだ。
仕事をしてお金を稼いで、趣味でバンド活動を続けた。19才から始めた。


「今からどうなりたいの?」と聞かれたことがある。
ん〜・・・。どうなりたい・・・?っか・・・。

私は私でいたい。
自分を騙しながら我慢して生きていくのではなく、自分の心に正直に生きて生きたい。
そして・・・

私は「歌」が歌いたいのだ。そして「歌」でいろんなことを伝えていきたい。
それを聞いてくれる誰かがいて、誰かがその歌によって癒され、それによって私も幸せをたくさん感じながら生きていたい。

そんなシンプルで簡単なことに気がついたのはそんなに昔ではない。
ごく最近のことだ。
いや、気がついてはいた。が確信したのだ。
いろんなことがあって、そう思えるようになったのだ。
1回目
女性の皆さんは同じような悩みを持っているのではないだろうか・・・。便秘、偏頭痛、疲れやすさ。
風邪を引きやすい。風邪がなかなか治らない。生理が始まる前からのだるさ、腰やお腹の痛み、生理中の痛み。etc・・・
若いときから便秘に悩まされていた私は、近くの内科で処方してもらった薬でなんとかやり過ごしていた。

20才になった年の春、体調不良で病院にかかったとき、先生から「お腹の出方がおかしいね・・・」と言われた。
太りすぎ・・・か・・・
そう思っていた。

エコーで検査するとお腹の中に丸い何かがあった。
「婦人科で診てもらってください。卵巣脳腫のようです」

なに?それ。
もちろん詳しいことはわからないが、卵巣のところに腫瘍ができているというのはわかる。
そしてかなり大きい。にぎりこぶし程の大きさだ。
「結構大きいから手術が必要かも・・・」

ショックだった。

病気して学校休んだり体育の授業を休めたらいいのに・・・と思うほど、それまでの私は健康だった。
就職して社会人になり、仕事は自分のやりたいことと離れてしまっていたが、それでも頑張ってやっていた。

バンドも、私に大きな影響を与えた「K・M・G」に入り、楽しいことだらけだった・・・。
入院、そして
それからは落ち込んでいる暇もなく、どうしよう・・・これから・・・
仲の良い友達のお母さんが偶然、産婦人科に勤務している看護婦さんだったため相談。
その病院へ行き診察。やっぱり手術だということで、その先生の教え子でそういった手術では権威の大手病院の先生に紹介状を書いてもらった。

その先生は、同じ病院でご夫婦そろって産婦人科医をやっているとのこと。ああ、女の先生もいるんだぁ〜(^ー^)ノとちょっと安心したのだった。
再び診察、そして入院申し込み。ベッドが空くまで2週間ほどかかるとのことだった。

もちろん入院も、そして手術も初めてだ!!正直、怖い。
今でこそ、「宇多田ヒカルが手術した・・・」って言えば、みんな「あ〜・・・」っていう感じだけど
その当時、卵巣そのものの存在も、あまり意識したこともなかったわけで・・・

私の担当になったのはご主人の方で男の先生だった。まぁ、仕方ない。
入院してから手術までは3日ほど。手術までは元気なので、なんとなくヒマだけどゆっくりとした時間を過ごした。
でも、病院って病気の風が吹いているのか、そこにずっといると気持ちが病人になっていく。。。
いや、実際病気だから入院しているのだが・・・気持ちが・・・と言うことだ。

手術前夜、もちろんなかなか眠れない。夕食も、もう絶食だし・・・。安定剤により夢の中へ・・・。

手術当日はバタバタで、術着に着替えて、点滴を打って、だんだん眠くなって・・・。
手術室に入って手術台に乗ったあと、麻酔がほぼ効いているんだけどまだ意識はあって
先生たちの話し声が聞こえている・・・。
私の足の先を触って、もう効いているみたいだから始めよう・・・・・って聞こえたあと
お腹あたりをハサミでパチンと切られたような痛みが走った。

気がつくと誰かが私のほっぺたをたたきながら、私の名前を呼んでいる。
それも、私のあだなを・・・。
なんとなく気がつくと手術室から病室へ運ばれるところで、私を呼んでいたのは中学時代の友達。
病院の手術室の看護婦さんになっていた。
手術は終わったらしい・・・。
そこまで分かったが、また深い眠りに入っていった。
入院生活
私のお腹から出てきた腫瘍は、私の母と友達のお母さんが確認してくれた。
こぶし大の大きさの皮様脳腫、皮の内側は脂肪の塊が囲んでいて、中には水分と髪の毛が入っていた。
中には爪が入っている場合もあるという。
腫瘍というよりは、卵巣にあるべきでない、身体を作る・・・例えば皮膚などの細胞が卵巣にできてしまい
その細胞が育ってしまって腫瘍になってしまう。そんな病気らしい。
原因は分からず、治療方法もない。
一度出来た人は、また出来る可能性があるという。自分にはどうしようもない病気だ。
腫瘍自体は陽性で悪い細胞はないが、大きくなりすぎると卵管をねじってしまい命の危険性もあるため
手術して取り出さなければならないらしい。

傷口は10cmちょっと。若いので縦に切ってビキニが着れなくなったら可哀想だから・・・と
横に切ってくれた。縦の方が先生としては楽だったらしい。

麻酔が完全に切れて術後数日は、私にとってはツライ日々だった。
下半身の感覚が全然違うのだ。というより、自分で動かせない。
お腹に布団が乗ると痛いので、お腹周りは直に布団がかからないような骨組みのようなものを組んでくれていた。
それがあって、自分では自分の足が見えない。
母や看護婦さんに、足のひざを立てているのが気持ち悪いから、足を寝かせてくれと頼んだりした。
でも、実際は足はまっすぐ寝ていた状態で、立てているわけではなかったようだ。
何か幻覚を見ていたのか、うなされていたのか、自分では何も分からないのだが
とにかく、自分で足を動かすことが出来ず、気がついたら「かかと」に所謂「床ずれ」が出来ていて
かなり悪くなっていた。

約2週間の入院の後、退院後は自宅療養で体力の回復に努めた。
ふくらはぎの筋肉はなくなっていて、歩くとすぐ疲れた。
1ヶ月半ほどの休みの後、職場復帰、そしてバンドに復帰した。

退院後、一度目の通院(といっても治療することはないので、傷口の状態確認のため)のとき
先生から手術の内容の説明を受けた。
右卵巣の一部を腫瘍とともに摘出とのこと。

しかし数年後に、一部ではなく全部を摘出していたことがわかる。
若かった私がショックを受けるので、先生も母も私に言わずに隠していたらしい。

右卵巣の全摘出がわかったのは、皮肉にも左の卵巣にまた出来た脳腫のおかげだった

2回目
最初の手術から7年後。音楽があまり出来ないくらいOL生活の方が忙しかった。
責任ある役職を任され、日々忙しかった。熊本へ日帰り出張したり、事務所で遅くまで仕事したり・・・
なにせ、何かをやり始めると一生懸命になりすぎるという、長所でもあり短所でもあるこの体質。
仕事に対してもそうだった。息抜きが苦手で、休憩しているつもりでも、実際はぜんぜん休まっていなかった。

ある日、不正出血など少しの異常が気になって、昼休みに会社の近くの婦人科医院に行った。
術後、先生から「半年毎に検査をして、5年なにもなければ大丈夫」と言われていて、半年毎の検診は必ず行っていた。
今回受診した病院はもちろん初めて行くところだが、会社の近くということもあり気軽に尋ねた。

毎回、婦人科の受診は少し緊張する。が、覚悟を決めて診察台にあがる。
内診が始まって間もなく、先生が「あれー?」と言葉を発した。「腫瘍が出来てますね・・・。」「結構大きいなぁ・・・。」
私は目の前が真っ暗になった。

先生の言葉にショックを受けた。大きいということはまた手術だ。胸がドキドキして血の気が引いていくのがわかった。
血圧が極端に下がり、それに気づいた看護婦さんが急いで血圧計を持ってきた。
40まで下がっていた。みんなに抱きかかえられ、診察室のすぐ横の畳の部屋に寝かされた。
看護婦さんがバタバタしていた。そして点滴を受けた。ショックによる血圧低下。下がりすぎ・・・だ。
でも、一度目の手術でとても辛い経験をした私にとっては、また手術をするなど考えられなかったし、5年以上何もなく順調に過ごしていたのだから そんなはずはないという確信、変な自信があった。でも、それが一瞬にしてそれが崩れ去ったのだ。小心者の私にとっては仕方のないことだ。

1時間ほど休んでいただろうか・・・。血圧が正常値に戻り、起き上がれるようになると再度先生から話しを伺った。
私の中に出来ていた腫瘍は1回目と同じ、握りこぶし大に腫れあがっていた。
半年前にちゃんと検査したのに何故???・・・。私は先生に尋ねた。
「こういった腫瘍は半年経てば大きくなるんですよ。ここまで大きくなっているので、やはり切除しなければ・・・」

みなさんにお礼を言い、私は病院をあとにした。
手術となればやはり大きな病院でしてもらわなければ・・・。
私は後日、1回目に手術した総合病院で診てもらった。結果は同じだった。

しかし、その病院で手術している人は数知れず、先生はカルテを見ながら話し始めた。
「前回は右卵巣の全摘でしたね・・・」
ん?私は一部だと聞いていたので、もう一度先生に聞きなおした。が、答えは同じ。
その時まで私は、少しは卵巣が残っているものだと信じていた。
先生も母も、私に全摘を伝えていないことなど、もう忘れていた。再び私はショックを受けたが、今度は倒れなかった。
入院の予約をし、会社には事情を説明し休暇をもらった。
入院中のケアは母に頼み、私は入院した。
病院は実家からバスで15分ほどの場所にあり、母はほとんど毎日来てくれた。ありがたかった。

2回目の手術も1回目と同じように行われた。
切る場所も1回目と同じところにしてくれるため、まだビキニが着れる。でも、まだ一度もビキニなど着た事がなかった。
私は手術して元気になったら、今度はビキニを着ようと思った。何か変だが、そう思った。

術後は1回目より楽だった。麻酔に使った背中に伸びるその管は、術後もしばらくは痛み止めを入れるためつながったままだった。
たぶんそのおかげだろう。うなされることなく、翌日は良く眠れた。ほとんど寝ていた。と思う。
立って歩き始めるのも、傷を止めていたホッチキスのようなものをとるのも、1回目より早かったようだ。
しかし、不安があるため1回目と同じくらい入院していた。退院してもすぐには普通にはできないからだ。

約2週間の入院生活を終え、退院し自宅療養に努めた。また、退化した筋肉を戻さなくてはならない。
でも、これは1回目よりきつかった。
以前はまだ若かったがあれからもう7年も経っている。
仕事も1ヶ月半程休ませてもらった。もう仕事する気力がなくなっていた。
喪失感?
自宅療養後、仕事に復帰してみた。しかし、以前のようにやる気が起きない。
私は何のために仕事しているんだろう・・・。
「自己管理が足りない」・・・そう言われた。
確かに会社には迷惑をかけた。が、病気自体は原因不明で自分ではどうしようもない。
生活のために仕事をしていた。毎日ただ生活するために。
でも、仕事と家の往復しかないこの生活に、疑問を感じていた。
たぶん、それは病気をしたからではなく、分かっていながら分かっていないふりをしていた。生活のために。
でも、病気を機にそんな建前は一気に崩れた。

それからは、仕事の帰りに求人雑誌を買っては探し、休日に職安に行っては探し、職探しの日々を始めた。
そしてかなり妥協して再就職先を決め、会社に退職願を出した。
理由は、体がきついから実家に戻る・・・と。だいたい辞める時には無難な理由を言うものだ。

それから忙しかった。新しい職場の近くに引越しをした。
幼い頃から引越しの多い生活をしてきた私は、引っ越すことに対しての抵抗はまるでない。
現在までを数えると、なんと・・・18回。多いよね。

新しい職場、新しい仕事。それに慣れるまで結構かかった。
仕事は以前のCADに戻ったが、内容が全然違うのだ。覚えるのが大変!!
毎日一生懸命がんばった。
最初の一年は慣れるためだけのものだったかもしれない。

そうしているうちに、やはり体の不調を感じた。
今までにない感じ。
体のだるさが抜けない。すぐ暑くなって汗をかく。風邪を引くとなかなか治らない。
何だかおかしい。今までと違う。

そんなある日、本屋で女性の体についての雑誌が出ていた。
何気に見てみた。
今まで聞いたことがない言葉を見つけた。
「不定愁訴」
読み進めていくと、なんと私の体の状態と同じようなことが書かれている。
思わずその本を買って、家で読んだ。

簡単に説明すると「不定愁訴」とは、更年期障害の前兆のようなもの。
通常更年期障害は閉経前の女性に起こりやすいのだが、「不定愁訴」はホルモンの異常によって同じような症状が起こる。
更年期障害は年齢などで大体わかるので、ひどい人は病院で治療を受けることが出来る。
しかし「不定愁訴」は年齢は関係なく、婦人科系の機能低下によるものなので、その判断は付けにくい。
まさしく「不定愁訴」にあたる症状のほとんどに当てはまった私の場合、婦人科での治療しか手立てが無かった。
その本には偶然、「不定愁訴」の治療を積極的に行っている病院の欄に、同じ市内の病院名を見つけた。
行くしかないと思った。
治療の開始
さて、診察を受けて血液検査をしてみると、血液中のホルモン量が通常の下限値に対して1/10もないという。
これはきついだろう・・・とのことで、何か治療をしようということになったが、注射を打ち続けるには激しい苦痛を伴うとのこと。
仕事をしながらではとても無理なので、私はホルモン剤を飲むことにした。
一日2錠ほどの薬を約一年半飲み続けた。
結果、血液中のホルモン量の増加はそれほどなく、逆に長く飲み続けることの副作用のほうが心配なので薬の服用は打ち切った。

治療をあきらめ、症状と前向きに向き合って行こうと決意した。
しかし、前向きになれないほど身体はつらい。
ワケも無く汗をかき、熱を出し、疲れ、怒りっぽくなり・・・
原因が分かっていてもどうしようも出来ないのがつらかった。
無理をしないのが一番だが、無理をしないと仕事が出来ない。
無理をしながら、時々は休み、またがんばる。そんなことを続けた。

半年に一度は定期健診に行く。卵巣がある限り、また脳腫が出来る可能性があった。
そして何年もたたないうちにまたそれはやってきた。

半年振りに検診に訪れた病院で、通算3個目の卵巣脳腫発見。
やはり半年あれば成長するらしい。
幸い、大きさは3cmX4cmほど。まだ切除しなくても良い大きさ。
また半年毎の経過観察のみということだ。
結局大きくなればまた手術しなければならない。
2回目の手術で、左の卵巣は半分かそれ以下の大きさのはず。
今度もし手術するとなれば、卵巣を残せるかどうかも私にはわからない。
卵巣が無くなれば、もちろん今よりもっと更年期の症状がひどくなるだろう。
体と精神のバランスはどうやってとっていくんだろう・・・?
いろんな不安が頭をよぎる。
とにかくこれ以上大きくならないように祈るしかない。

ストレスをためないように医者から言われた。
何がストレスなのか、自分ではあまり自覚が無い。
ただ、イヤだと思うことを我慢して続けるのはきっとストレスなんだろう・・・と思う。
でも、社会人としてイヤな事を我慢しないわけにはいかない。
どこからどこまで・・・線引きがとても難しい問題であった。
どちらかというと完璧主義?どちらかというと神経質・・・?
設計、トレースという仕事上、こんな性格になったのは仕方のないことだった。
適当やいい加減は絶対許されない仕事だった。
自分の性格
シンガーとしての私も、ある意味完璧主義、神経質な部分があった。
それがもっと違う部分で発揮できていたら、また違った人生だったに違いない。
その完璧主義、神経質な部分がこだわったポイントは、今から考えると間違ってはいないが、広い視野で物事を捉えることができていなかったと思われる。
練習をたくさんした。でも今思うに、研究をたくさんすればよかった。
練習したことは全く意味の無いことではない。それによって克服できなかった多くのことに気づき、研究の大切さに気づいたからだ。
思い込むと一直線な性格は、いろんな場合において遠回りを余儀なくされる。
これもきっと運命なんだろう。

こうやって仕事や病気など、いろんなことで自分と向き合って来た私が、本気で歌と向かい合いたいと決意して、長年プロミュージシャンとして地元で活躍している中尾カオルさんに相談したのはそれから少し経ってからだった。
それまでも、もちろん全力で本気だった。
でも、本気の基本レベルが私の中でどんどん変化していっていた。
歌が好きなバンドヴォーカルのおねえちゃんが、プロのシンガーとしての苦労をしていく決心をした。
同じ歌を歌うことに変わりは無いが、歌に対する考え方、姿勢、全てが変わることになった。
変わらざるを得なかった。
カオルさんはギタリストであり、プロデューサーである。
何百人の生徒をこれまで教えてきている。
シンガーとして勉強しなおしたいという私に、大きな課題が与えられた。
これまでの歌い方、癖を全て捨てること。
言葉ではそれほど大変なことには見えないが、長いこと好きなように歌ってきた私には、とてつもなく大変なことだった。
歌い癖を直すのがこれほど大変だとは・・・

音符通りにまっすぐ歌う。
ダイナミクスもつけず、変なノリを出してもいけない、歌い始め、歌い終わりにももちろんだ。
いろんな感情を押し殺し歌うことは、歌い手として考えても見なかったこと。
いくらやってもできなくて、ダメ出しの連続で・・・。
そのうち、大きな声で歌うことが出来なくなっていた。
どうやって歌っていいのかわからない。
気持ちがどんどん萎縮していった。
あんなに歌うのが好きだったのに・・・
いろんな壁
歌うことが怖くて、声を出すのが怖くて、それでも容赦なくライブはあり、歌わなければならない。
そして怖くて歌えなくて、声が出なくて、いいステージはもちろん出来なくて、更に落ち込むのだった。
自分が何のために歌っているのか、どうしてこんな風になってしまったのか、そのころの私には答えなど出なかった。
どこか暗いトンネルの中を歩いていて周りは壁だらけ、そんな手探りともいえる状態で過ごしていた。
やらなければならない課題はどんどん出てきた。学ぶということはそういうことなのだ。
しかし、ひとつをクリアしてから次に向かっていたのではいくら時間があっても足りない。
抱えきれないほどの課題を抱え、気持ちだけがあせる日々だった。
とにかく、出来ることをやろう・・・
立ちはだかる壁をにふさがれつつも、自分が思いつくことをひとつずつ、それが何になるかは分かるはずもないまま続けることが唯一自分にできることだった。

精神と体とはつながっている。病は気からというが、気の持ちようで病気にならないことも、またその逆もある。
もともと前述の理由から体の調子は良くないが、それゆえに常に健康管理には人一倍気を使っていた。
そのころはPAのバイトをしながら歌に悩んでいたのだが、精神的に落ち込んでいる状態に追い討ちをかけるように体の疲れも溜まっていた。
激しいお腹の痛み。仕事中は我慢をし、終わってすぐ病院へ。
原因はわからないがそのころ微熱が続いていたため、薬をもらって帰った。
数日痛みを薬で抑えていたある日、やはり仕事中にたまらず痛くなった。
たまたまカオルさんがいたことから帰らせてもらうが、熱もあり、家に帰るのがやっと。
夜に家族のものに急患センターに連れて行ってもらう。
熱も高く、お腹の痛みがピークだったことで少し強い痛み止めの注射を打ってもらい、しばらくベッドで休んでいた。
強い薬のためすぐに体を動かしてはいけないとのことで、2時間ほどだろうか、ぐっすり眠り、やがて看護婦さんに起こされた。

もうそろそろ帰ってもいい時間なので・・・。
体を起こそうとするが、自分で起き上がれない。
手を借りて起きてみる。すると激しいめまいと動悸、とても起きていられない。
気分が悪い。。。そういって横になり、血圧を測ると異常に低下していた。上が40代の数値、唇もまっ青。
交代でやってきた先生も様子を見に来ると、このまま帰すわけにはいかないから・・・と入院を勧められた。
隣が市立の病院だが、救急車で運ぶ場合、近い病院に決まるわけでもないらしい。
しかし幸い受け入れOKとのことで、隣の病院まで救急車で運ばれた。
救急車に乗ったのは2回目かな・・・?
車で事故ったとき以来かぁ・・・なんて思う余裕は少しあって、でもとても気分が悪かった。
いきなりの入院。なんなんだろう。熱が出てお腹が痛かっただけだったのに・・・。
また入院
通算4度目の入院である。
事故で1度、卵巣脳腫の手術で2度、そして今回。
事故は二十歳の頃、軽自動車運転中、4tトラックとのほぼ正面衝突の経験がある。
まさか、4tトラックに勝てるわけも無く、川沿いの土手の道を跳ね飛ばされ、目が覚めたのは土手の斜面。
警察に「よく死ななかったね」といわれたが、頭部打撲と足の甲の骨折だけだった。
足にギブスをはめた為、動けないので入院した。一ヵ月半ほどの入院だった。

今回は手術はなかったが、原因がわからないのでつらい検査をたくさん受けることになった。
特に腸の検査で、お腹に空気を入れていろんな角度から撮影する検査が一番辛かった。
もちろん腹部の痛みだったので婦人科の検査もしたが、最終的に原因不明のまま退院となった。
最終的にはストレスをためないように・・・などといわれるのだった。

今の世の中、ストレスのない人っているんだろうか・・・?
もちろん精神的な強さ、弱さの問題もあると思う。
しかし多かれ少なかれ、仕事や人間関係など、社会生活を営む上でストレスとは常に付きまとってくるものなのではないかと思う。
それを、上回るほどの楽しいことがあったり、気分転換がうまく出来る人はストレスによる弊害を感じないのだろう。
私も自分ではそのストレスがわからない。

更年期障害の症状に前向きに立ち向かうことで、時間はかかったがある程度のコントロールが出来るようになってきていた。
極力無理をしないように、いろんなことを自重してやっていくことにした。
強いてストレスといえば、体調を考えるがために、やりたいことが全部できないということ。
しかしそれは仕方ないとあきらめているはずなのである。
人間、分かっているのにどうしようもないことがあると思う。
まさしく、そのジレンマ。
体調を考え、人に迷惑をかけないように自重してスケジュールを組みながらの活動と、無理してでもやりたいという湧き出てくる好奇心。
多分、そのバランスをとらなければ・・・そう思うことが私のストレスなんだろうなぁ。。。
でも形は違っても、みんな同じようにいろんな問題抱えて生きてるんだ。
そう思うことが私の励みになる。
コントロール
気持ちをコントロールする。
私にとって、もっとも必要なことだと今思っている。
平常、緊急時、トラブル時、どんな状態になろうと、全身で歌うことができるように。
嫌なことがあったとき、思い通りに行かない時、つらい時、本来の自分を見失わないように。
嬉しいことがあったとき、感謝の気持ちを忘れないように。
憤りを覚えた時・・・爆発することが決して何も生まないことを。
何事かあったとき、グッと言葉を飲み込む。
一呼吸・・・。
人との会話の中で、思い違い、勘違いなんてよくあること。
うまく伝えられない言葉、相手が違うと同じ言葉でも違う意味になってしまうこともある。
一呼吸・・・。
強くない自分を、それでも強く保つため、呼吸をする。
気持ちを落ち着かせるため、呼吸をする。
歌うときに一番大事な呼吸が、私にとってとても大事な所作になる。
自分をコントロールするための呼吸。

偉いお坊さんみたいに、悟りの境地にまで一生かけても行けないけど、自分の心をコントロールしようとすることが、 なんと自分を楽にしてくれるのだろう。
もちろんコントロールなんてできてないんだけど、意識を持っていくことが何かを動かしてくれてる気がしてる。
何か事を興す時、迷った時、一呼吸して考える。
私のやりたいことは・・・?

私は「歌」が歌いたいのだ。そして「歌」でいろんなことを伝えていきたい。
それを聞いてくれる誰かがいて、誰かがその歌によって癒され、それによって私も幸せをたくさん感じながら生きていたい。

やすらぎ、癒され、和やかで優しい気持ちに、楽しい気持ちになってもらえたら・・・
しあわせだろうなぁ・・・

そこに行くために、必要なことをがんばる。
今しか出来ないことを、一生懸命やる。
自分で決めて、自分でやる。
それが決して後悔などしない方法だと思っているから。
後書き
思いがけない病気によって、長い時間をかけてわかったこと。
それは歌えることの喜び。それから人のありがたさ。それから、それから・・・たくさん、たくさんある。
きっと、誰かにヘタ!とか、やめろ!っていわれても、歌やめないと思う。
なんでかな?
そう思う。。。
時には立ち止まって休憩することもある。けど、停止ではなく一時停止。PAUSE。
もう一度歩き始めるための。
それでいいじゃないかって、思えた自分。
そして今も、3個目の卵巣脳腫をかかえているけど、いろんな症状と向き合いながら私の人生は進んでいる。
前に向かって・・・。

それから・・・ね、別に病気もってて大変だぁ〜ってことがいいたかったわけじゃない。
人ってみんなそれぞれ、いろんな悩みや問題、抱えて生きているって思う。
だから、苦しいのは自分だけじゃないんだよ!って、みんな結構いろいろあるんだからがんばろうよ!っていいたかった。
特に同じような病気抱えている人、不安だろうし・・・
病気じゃない問題抱えている人も、きっと解決策?妥協策?はどこかにあると思う。
それは自分自身の心だったりして・・・。
迷路みたいなところにはまってないで、そこから出る努力を何か・・・やってみませんか?
気の持ちようひとつで、結構楽になるよ!


・・・と、これを書いたのが2004年のことだった。
体験をシェアすることで、すこしでも同じような悩み、体験をした人が樂になれたらいい。。。
そう思って。

あれから数年たち、なぜ自分がこんな人生を送ってきたのか?送らなければいけなかったのか?
そして自分が何者でどこにいこうとしているのか?

そんな探求が始まり、そしていろんな人との出会いによって気づいたこと。

それを今度はシェアしていきたいと思います。

それが私の人生の目的のひとつであると、確信しているから・・・